光福禅寺
甲斐武田氏ゆかりの佐是城址内にある
     延命山光福禅寺

〒290-0229
千葉県市原市佐是1097
TEL.0436-92-1335
FAX.0436-92-0098



佐是 光福寺について
 曹洞宗延命山光福寺は、市原市佐是諸久保、南山の集落と堀の内の集落の間の小高い山中に有り、寺の周辺は、並郭式縄張りの城址と古墳群に囲まれ、内堀を挟んで佐是城址があり、寺の大門は、お城の虎口として領していたと思われる。
 又、光福寺は、佐是の八幡神社と塚田との周辺に位置していたという話もあり、定かではないが、寺の壺といわれている地名があり、何故か、山の上に位置しているのである。
 この寺は、延宝三年九月九日(一六七五)に開山し、木更津市真里谷の大倉山妙泉寺の歴住七世が開祖である。
 開基は、代官小田切氏で、武田勝頼に使えた侍大将「武川衆」の一人である。武田信玄公の甲州軍団組織図には、国衆武川衆と書かれている。
 妙泉寺は、光福寺の本寺で、妙泉寺の開山は、永正七年(一五一〇)七月、鎌倉氏照公より墨印を承わる。開基は、武田信隆公。妙泉寺の本寺は、真理谷武田氏善提寺である真如寺です。開山は、寛正五年(一四六四)室町時代である。
 さて、光福寺の本尊様は、薬師瑠璃光如来。年代は、室町後期の時代で、左手の上に薬壺を持つ。右手は、第一指と第三指を念じる。納衣、裳「下半身につける長いスカート状の衣服、したばかま」をつける。神将は江戸後期、如意輪観音菩薩、如来形立像、又牛久住、大佛師大田大学作である地蔵善薩立像、不動明王立像。文化六年二月(一八〇九)六十八歳で作り上げた十王形座像が安置され、いろいろな仏像が有り、この寺は、規模の大きい寺ではないかと思う。
本堂の中央に、大きな山号額「延命山」を見ても伺われる。又、山号額は、総門に有るべきで有り、本堂には無いものである。又、人の話では、建物は大きく二階建てだったそうです。大正十二年の関東大地震にて被害にあい、その廃材の一部を使い、大正十四年三月十四日に再建され、本堂の丸柱、梁、柱などが使われている。
須弥壇の梁の中央に、実相院菊の寺紋が有り、赤の彩色がされている。須弥壇の左右には、厨子の扉があり、扉には、十六菊の飾り金具があり、牡丹の花の絵が書かれている。薬師瑠璃光如来の仏像の前には「鐘楼一丁為長奉院殿妙心院殿菩提也。二一時元禄六発西暦三月日施主小田切土佐守源直利公、願主桐谷藤助」と書かれた位牌と、もうひとつの位牌には、「金五両永代鐘楼修復碑施主小田切土佐守源直照公二一時天保十三壬寅歴九月日」と書かれたものもある。尚、小田切土佐守源直照公は、三千五百石内千五百石高蔵上総下総上野下野摂津之内、本国信濃、生国武蔵、弘化四丁未年十月五日病気付願之通御役御免菊之間縁頬詰被仰付右大将様ヨリ御□□、弘化五年申年三月五日死去。
話を変えまして、過去帳に記載されているところの中には、寛永十年(一六三三)酉十二月稲冨宮、覚岸院殿寶山道樹居士霊柩内父。万治二年三月(一六五九)稲冨氏、覚林院殿法雲源説居士。元禄十年十二月(一六九七)稲冨次郎左ヱ門、智覚院殿光安全昭大居士。文化三寅年(一八〇六)6月稲冨内記母、知本院でん空誉即誠清信口尼、誠忠院殿知勝玄考大居士。堀江勝次郎三十二歳。慶応戌辰年四月麻生谷義軍府方之、あり。これを見ると、院殿大居士が多いことに驚きます。
境内地には、稲富氏や堀江勝次郎のお墓はみあたらず、五輪塔、宝筺印塔の一部が山中に見られます。境内地には、愛宕山があり、その社は前方後円墳の上にあり、護身体は勝軍地蔵である。
その進行は、足利尊氏が強く信仰したことによって、室町時代頃から、武士の間に信仰が広まったもので、戦いに際して、この仏に、戦勝を祈願したと言われている。軍神として崇拝されるほか、防火神ともいわれ、京都、嵯峨の愛宕神社の本地仏とされる。像容は、大陸風の甲冑を身につけ、馬に乗る姿で、鎌倉時代に伝来したという。
「蓮華三味経」に空寂の甲をいただき随求陀羅尼の鎧を着て、金剛智の大刀をはき、発心修行の播をかざし、悪技煩悩の軍を切る剣と、信仰の強さを武器にたとえて説いています。愛宕山のお祭りは八月二十四日に奉納相撲が行われていた。